連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第7回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

 無償の電子版(山西氏執筆による章限定)をご利用ください。

 楽走プラス 楽走の本棚 電子版「楽しいランニングのススメ」

 

 過去分はこちら:

 第1部 楽しく走る

  第1章 楽しく走るために

   第1回 第2回 第3回 第4回 第5回

  第2章 ソクラテスになって走る

   第6回


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


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今回のテキスト:


 1.脳の構造とランニングの種類


 1962年に発刊された時実俊彦氏の『脳の話』のなかで、 脳をヒトの進化と発育発達に結びつけ、脳幹、間脳、大脳皮質の三層の働きと統合を説いています。猪飼道夫はそれを教育に関連させ、脳幹を身体の教育、間脳を情動脳とし情動の教育、そして、大脳皮質を理性能とし理知の教育と、それぞれの特性を明確にしながら、これらが相互に関係を持たせていく必要性を述べています。

 この脳の構造の三層でランニングを考えれば、脳幹では動物的走り、間脳では感性的走り、大脳皮質では理性的走りとなり、それぞれのランニングによって働く領域が異なり、また、年代によっても脳幹、間脳、大脳皮質と主たる領域は変わってくるのです。


●動物走

 誕生後、乳児から幼児にかけては、四足歩きから、直立二足歩行、そして走行を身につける動作の発達は、まさに脊髄から脳幹にかけての働きによる進化の現れです。そして、腕、脚、体幹の筋肉や神経を動かしながらヒトとしての走りの動作を完成させて行くのです。しかし、これは子どもに限ったことではなく、大人になっても、脳梗塞や脊髄損傷などの病気や事故によって、動けなくなったときのリハビリも、もういちど、乳児から始めて歩と走を再生していくのです。時間制限のないホノルルマラソンには障害児やリハビリの成人まで出場し、ヒトとしての走りに挑む姿が多く見ることができます。


●感性走 

 幼児期から小学生にかけての子どもたちは走ることを遊びのように楽しく心地よい表情でやってしまいます。 だから、走は喜びの表現であり、情動脳を使うことによって走ることが好きになり、楽しく走って感性を創っていくのです。その楽しさは自分との対話、自然との対話、そして、仲間との対話を走りながらの体験のなかから創られていくのです。

 その結果、思考に始まり、俳句、スケッチ、作曲といった作品ができあがります。

   ゆっくり走 枯れ草道に 春弾む


●理性走

 ヒトとして走り、子どものように走っていくうちに、もっとうまく賢く走ってみたくなってくるのは自然の成り行きでしょう。ゆっくり走る、心地よく走る、全身の感覚が働き、 脳がさわやかになると考えがしだいに深まっていく。そして、言葉が生きた文字となって、まるで哲学者になったように思えてくるのです。まるで、脚がペンになり、路上が原稿用紙になったように…。 また、会議や講演の内容、研究結果の考察など走る前に、テーマを持って走る。あるいは、呼吸や心拍数、筋肉、そして脳の構造や機能についての知識を持って走りつつ、体の各部に問いかければまさに科学者になれるのです。


●こころで走る

 精神科医であり、マラソンランナーであるT・コストルバラは『Joy of Running』(1976)に「脳の中枢部がランニングと直接関係がある」とし、ゆっくりとリズムカルに走りつづければ、 脳の下層中枢、そして大脳皮質の左側から右側へとはたらきの中心が移り、直感的、感覚的に意識を持つようになると、ランニングの心理的効果を強調しています。 その脳に見られる現象として、エクスタシー現象やランナーズハイを取り上げ、心理的には40分は走る必要があると、具体的に示し、それをもとにランニングによる精神療法をいちはやく始めたのです。

久保田競氏も「私が走るのは、心の安定であり、たのしみのためのランニング、あたまのためのランニングであり」それを書くために『ランニングと脳』を出版したと、その動機を述べ、コストルバラにも刺激されながら論を進めていったのです。

 このメカニズムは、生理学的には、「走ることが筋だけではなく、脳幹や視床下部、辺縁系などが活性したこと」であり、「セロトニンやドーパミンなどの物質が脳内で走る痛みをやわらげ、快感を生み出す」(征矢英昭、2001)と、近年はこころの効果を説明される研究が多く見られるようになってきました。それを橋本公雄氏が「快適自己ペース」という主観的に快適で走ることを提示しています。このことは、2003年に亡くなった世界的名コーチのアーサー・リディアードが「自分に最も適したスピードで走れるようになれば、どんな激しいランニングでも挑むこと」ができるというトレーニングの原点を説いていました。たしかに、自分にふさわしいと示されたトレーニングメニューでも、やはり、自分のからだを通して脳で的確に判断する感覚と直感が必要です。そうでなければ自分の内部から走る力も楽しさも湧いてこないのです。 


2.脳で走る 


 ランニングに生理的、心理的な効果があっても、ランナーズハイを与えるエンドルフィンには中毒性があり、頑固で極度に集中する態度が出て毎日走らなければならないという気持ちになってしまうこともありえます。 しかし、これは走りたくないということと同様に、脳の働きの歪みとしてとらえ、つねに自己の内部に問いかけて走れば解決することも考えられます。

 1マイル4分の壁にノイローゼになりながらも挑んだバニスターが、「自分の走りや理由はよくわからないが、どうしても走りたい、自分を表現するにはこれしかないという気持ちがあり、これをランニングが呼び起こしている」といった言葉を聞けば、自分自身の頭でセルフコントロールしながら走り、それをランナー自らの言葉によっても知るということは、 脳で走っているという証明になってくるのです。

 アリストテレスの「人間は、社会的動物」であるという言葉を借りれば、走りながらからだを変えていっただけではなく、走る感覚を通して観察力や思考を深め、多くの自然や人びとに接しながら、脳を発達させ「社会脳」をつくった現れであると思います。 かつて、レオナルド・ダ・ヴィンチは散歩をしながら、歩道をつくり、建物の高さや配置を考え風景をつくったといいます。

 これからのランニングは「汝、自身を知る」という自己観察と、周りの風景や人々と対話をして他者を観察し、社会や環境を見極めるという脳を成長させ、より人間らしく走りを楽しみたいものです。


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 著者山西氏は、脳が脳幹、間脳、大脳の三層構造から成り立っていると述べて、それぞれに特徴的なランニングの種類と関わっていると説明しています。前回のテキスト末尾にあった「ソクラテスとなって走ることも、実は脳の働きの変化であると知ることができたのです。」を受けた内容です。


 脳科学は昨今急速に進歩して、専門家でない私たちも脳の働きと身体の機能の関係について多くの情報を得ることができるようになっています。本書が出版された2011年当時とは脳についての私たちの認識も大きく進展しました。このため、今日このテキストを読むと、そこに書かれた脳の構造とランニングの姿の対応がこれほど単純でないことは読者が共通して感じるところではなかろうかと思います。


 しかし、ここで著者が言おうとしたことは、脳の解剖学的な知見に対応したランニングの種類分けではなかったのでしょう。ランニングという運動には、動物的、感性的、理性的など多様な姿があること、したがってランニングを楽しむ際に一面的に捉えるのではなく、多面的な楽しみ方をしてほしいということではないだろうかと、私は理解をしています。


 だからこそ、動物走、感性走、理性走と3種類を列挙して例示したその後に続く小見出しは、「こころで走る」であり「脳で走る」なのだと私は思います。一貫して楽しいランニングをススメている著者の主張は全く揺らいでいません。


 ここに記されている3種類の「走」は、「第1章 楽しく走るために」の「2.多様に豊かに走る楽しさ」の内容とも重複するところがありますが(連載第5回)、動物的、感性的、理性的という前回とは異なる観点から整理し直したものとして理解することができると思いますので、個別例についてここで述べることは省略いたします。


 続いて、テキストは「こころで走る」、「脳で走る」と続きます。こころで、と、脳で、とは何が違うというのでしょうか。こころ(精神)が脳に宿ることを考えると両者に大きな相違はなさそうにも思えるのですが、テキストに登場する言葉の端々から私は次のように整理して解釈してはどうかと考えています。


 「こころで走る」を読むと、脳科学者たちによる次のような言葉が引かれています。

・コストルバラ氏については、「エクスタシー現象やランナーズハイ」

・久保田競氏については、「心の安定」、「たのしみのためのランニング」、「あたまのためのランニング」

・征矢氏については、「快感を生み出す」

・橋本氏については、「自己快適ペース」、「主観的に快適で走る」

・リディアード氏については、「自分に最も適したスピードで走る」(この言葉には少し注釈を付けます。彼が残した「train, don't strain」という有名な言葉と同じ趣旨を述べたものです。決して無理な練習はするなということで、自分に適したスピードとはそうした意味なのです。彼の時代、no pain, no gainといった苦しい練習をしなければ成果は挙がらないという考え方が主流だったところに、リディアードは反論したのでした。)


 こうした言葉たちから何が読み取れるでしょうか。タイムや距離といった客観的な指標よりも、快感や楽しみなどの主観の大切さが述べられているように思いました。「こころで走る」のキーワードは、「主観の大切さ」としたいと思います。


 次に、「脳で走る」ではどうでしょうか。ここでも言葉を拾ってみると、

・「つねに自分の内部に問いかけて走る」

・バニスター氏に関しては、「セルフコントロールしながら走る」

・アリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチを通して、「社会脳」

などが挙げられるかと思います。


 読者によっていろいろな解釈ができそうには思いますが、私は、「こころ」でなく「脳」という器官の名称を使ったことによって自分を客観視することではないかと考えています。「こころ」が自分そのものを表す一人称的な表現であるならば、自分のことを「脳」と表現することでどこか第三者的というか主観を一旦離れて客観的に自分を見つめるといったニュアンスを感じ取りました。そこで、「脳で走る」のキーワードは、「自分を客観視する」としたいと思います。


 こころを大切にして「楽しい」ランニングをすることを主張する著者ですが、その一方で、主観だけに依存せずに、自分を客観視して無理のない(train, don't strain)ランニングを楽しんでほしいという願いが込められているのではないでしょうか。今回のテキストは、「より人間らしく走りを楽しみたいものです。」という言葉で締めくくられています。主観の「こころ」と客観の「脳」。私たちはそうした存在なのかもしれません。


 このように考えることによって、「汝、自身を知れ」と言ったというソクラテスの名前を冠して「ソクラテスになって走る」とした第2章の難解なタイトルで著者が言いたかったところに、やっと到達できたように私には思えるのです。読者の方の解釈はいかがでしょうか。



今回で、第2章を一旦終わり、次回は、この章に出てきたいくつかの書籍を簡単にご紹介してみたいと思います。


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付記


著者山西哲郎先生は、本年(2023)6月に傘寿をお迎えになりました。ご健勝とご活躍をお慶び申し上げますとともに、今後ともますますお元気で「楽しいランニング」を広めていただきたいと思います。



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