連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第1回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

 出版社絶版。下の場所に無償の電子版(山西氏執筆による章のみ)があります。ご利用ください。

 楽走プラス 楽走の本棚 電子版「楽しいランニングのススメ」



 こんにちは、北島政明です。「楽しいランニングのススメ」には、私がランニング大学で指導していただいた山西哲郎先生のランニングに対する考え方の根幹が短い言葉の中に凝縮されています。言葉が柔らかなためさらさらと読み進めてしまいますが、言い回しが独特であったり非常にコンパクトに書かれているため意味を把握することが難しいところもあり、一方では読み返すたびに新たな発見もあるのです。

 

 「私はこう読む」には、この本に収められた山西先生の言葉たちを私がどのように解釈したかをまとめてみます。そこには、私自身のランニングに対する姿勢もあぶり出されてくることと思います。著者山西先生に確認をいただいた解釈ではありませんので著者の意図と異なるところがあるかもしれません。お気づきの点をご指摘いただければ幸いです。


 毎回、本の記載を少しずつ引きながら随時掲載いたします。



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第1回 第Ⅰ部 楽しく走る 第1章 楽しく走るために から冒頭部分


(第1章「楽しく走るために」は、当初、「ランニングの世界」第1号(2005)に発表されました。同誌の創刊に際し山西氏が真っ先に掲げた所信表明の文章でもあります。)


今回のテキスト:

鳥は空を飛び、魚は河や海を泳ぐ、われら大地にたたずむ者はどこまでも走りたし 


他に憧れを抱くと、自ずからそれに近づこう、そうなってみたいという希望を持つのが人間の特性と思います。このことは、走ることにもいえることであり、単調と思える走りに、このようなこころが動き伴い、私たちは一つになって走ります。そこに快あり、苦痛あり、軽さも重さもあり、気持ちよさと痛みあり、喜び悲しみあり、そしてそれらすべてが楽しみなのです。


小樽運河の走る子供の彫像

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『鳥は空を飛び、魚は河や海を泳ぐ、われら大地にたたずむ者はどこまでも走りたし』


 著者である山西氏は、「われら大地にたたずむ者」である人間は、どこまでも走りたいと願うものだと言います。それは、鳥が空を飛び、魚が河や海を泳ぐのと同じように人間だれしもが生まれながらにもっている特性だということなのでしょう。二本足歩行をする陸上歩行生物に進化した私たち人間が陸上を歩くのは自然なことです。


 しかし、著者は、「歩きたし」ではなく「走りたし」と言っています。歩くのでなく走れと告げているのでしょうか。必ずしもそうではないように思います。私は、「歩」と「走」が同源、言い方を変えれば「歩」と「走」は動作として連続していて特段分ける必要はないということかと思います。例えば、著者が提唱するマラニックはピクニックとマラソンを合わせた造語であり、走り、歩き、立ち止まって休憩もしながら心身をリラックスさせる運動を指します。著者にとってのランニングとは、決して走り続けなければならない、途中で歩いたり止まったりしてはならないというものではないのです。


 この言葉には、著者の長年の主張であり、氏の主張全体に通底する「走ることは本来楽しいものなのだ」という主張が込められています。歩くのと同じように走ることも人間として自然な行為なのですよ、さぁ楽しく走りましょう、と呼びかける著者の声が聞こえるようです。


 なお、「鳥は、、魚は、、」の部分は島村優子氏作曲「鳥児在天空飛翔 魚児在河里遊泳」(鳥は空を飛び、魚は河を泳ぐ) に由来する可能性を指摘しておきます。

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『他に憧れを抱くと、自ずからそれに近づこう、そうなってみたいという希望を持つのが人間の特性と思います。このことは、走ることにもいえることであり、単調と思える走りに、このようなこころが動き伴い、私たちは一つになって走ります。そこに快あり、苦痛あり、軽さも重さもあり、気持ちよさと痛みあり、喜び悲しみあり、そしてそれらすべてが楽しみなのです。』


 詩的な表現でコンパクトに書かれているためにただちには意味を取りづらい感があります。まず、字句に沿って素直に読んでみます。


 「他に憧れを抱くと、自ずからそれに近づこう、そうなってみたいという希望を持つのが人間の特性と思います。このことは、走ることにもいえることであり、」までは、その前に掲げられた鳥や魚が自由にその世界を動いている姿に憧れて人間は自分たちも大地を「どこまでも走りたし」と願うのが自然なことだと言っているのでしょう。


 「単調と思える走りに、このようなこころが動き伴い、私たちは一つになって走ります。」は、身体の動きとしては単調な走るという動作に、「このようなこころ」すなわち「大地をどこまでも走っていきたい」という人間の自然な心が「動き伴う」ことによって「私たちは一つになって走ります。」と読めます。

 ここが第1のポイントで、「私たち」とは誰と誰のことで、何が「一つになる」というのでしょうか。


 そして、最後の文「そこに快あり、苦痛あり、軽さも重さもあり、気持ちよさと痛みあり、喜び悲しみあり、そしてそれらすべてが楽しみなのです。」に続きます。冒頭に「そこに」とありますから、「私たちが一つになって走る」ことによっての意味だと考えられます。そのようなときには、快さ、喜びなどプラスの感情と、苦痛、痛みなどマイナスの感情の「それらすべてが楽しみなのです。」だと言うのです。

 ここが第2のポイントかと思われます。苦痛などのマイナスの感情までが楽しみというプラスの感情なのだという主張は表面的には矛盾しているようにもとれるからです。


 では、第1のポイント。

 まず、「私たちは一つになって走ります。」について私はいささか意訳的に解釈をしています。普通、「私たち」という私と他の誰かの意味ですが、「走りに心が動き伴う」ことで「私たちは一つになる」というのですから、「私たち」とは、走りという身体動作と、「どこまでも走っていきたい」という心の、「私」を構成する身体と心が一つになることを言っていると思うのです。私の身体と心がバランスの取れた一体、すなわち、心身一如(注1)となって走るという意味ではないでしょうか。ランニングには身体と心のバランスが必要であり、肉体と心のいずれか一方だけが突出した状態を避けて心身の調和を図ることによってはじめて「楽しいランニング」ができるというのが著者の一貫した基本姿勢であることは、著者による多くの著作や講義の全体から明らかなことです。第1のポイントを以上のように解釈することによって、次の逆説的な文に近づくことができます。


 つづいて、第2のポイント。

 ここに書かれているのは、身体と心のバランスのとれたランニングを行うことによって、さまざまな身体の状況、心の状況をすべてひっくるめた楽しさをもって走ることができるのだという主張であると理解しています。


 走っているときに私たちが受け取る感覚や感情は実に様々です。その日に走る前から抱いていた感情や体調も影響し、その全てを含んだ「私」の全部が走っていきます。走るに連れて、徐々に五感が鋭敏となり自分の身体と心が対話を始めます。北風の冷たさに頬が痛くてもやがてその鮮烈な空気が快く思われ、ストレスを抱いていたときでも走っていくうちに辛い思いが消えて自然との対話に心が移り、楽しくなっていく。こうした状況では、苦痛、痛みなどマイナスの感情もひっくるめて走る楽しさなのだ、あるいは走る楽しさにつながるのだと言うことができると思います。


 一方、走り出せば生理的必然として脚の疲労感や呼吸の苦しさが生じます。ある程度の負荷による疲労感などが走るうえでの気分を高揚させることもありますが、それでも、苦しいものは苦しい、痛いものは痛い。第2のポイントは、しかし、肉体の苦痛も楽しさの一つだなどと強弁する趣旨ではないと思います。走ることを身体だけから見ていたのでは、フィジカルな苦痛ばかりが気にかかることでしょう。いちど肩の力を抜いて心の豊かさを追い求める視点を加えて、走ること自体の楽しさを見出してほしいと思います。


 その解決方法はここでの主題ではありませんが、辛いならばペースを緩め、自分の力に見合った長さの距離や時間で走ることによって、走る楽しさを感じられるようになっていくと思います。決して歩きを入れてはならないなどという世界ではありません。


 苦しさに耐えて目標を達成することに価値を置いて走っているランナーは少なくありません。自己ベスト記録の更新に励むランナーは多いはずです。こうした場合、苦痛は乗り越えるべき課題であり、きついからペースを落とすなど論外に思えることでしょう。課題があるからこそ楽しいのだと感じられるかもしれませんが、何のためにその目標を達成したいのかを見つめ直してみる価値はあろうかと思います。目標を達成すること自体が目的化してしまったのでは第1のポイントで述べた「楽しいランニング」から外れていきかねないからです。マーク・ローランズは、道具的価値と内在的価値という概念を提示してこの問題を考えています(注2)。


 気持ちよさも苦痛も包み込んだ楽しいランニングについての私の解釈を以上のようにまとめることにして、この後の「1.走る楽しさとは」につなげたいと思います。    

 走るときの苦痛については、この章の最後にもう一度触れることになります。


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(注1)「コロナ禍の今こそ、心身一如のランニングを」 善光寺の栢木寛照大勧進大僧正と山西氏の対談 ランニングの世界26号 2021年。

(注2)「哲学者が走る 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと」 マーク・ローランズ 今泉みね子訳 (2013)


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