連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第2回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

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  第1回


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


 こんにちは、北島政明です。第2回では、本書のタイトルである「楽しいランニング」とは何なのかを考えます。著者がススメる走る楽しさとはどういうことか、本書の中心となる一節です。


今回のテキスト:

1.走る楽しさとは


 「楽しい」とは、広辞苑によれば「満足で愉快な気分である」と「豊かである」の二つの意味がある。走ることにあてはめれば、前者は走ること自体を楽しむことであり、後者は走りを楽しむいろいろな方法があることです。

 1940年代に、ホイジンガーたちは人間の特性をホモ・ルーデンス、つまり遊び人間と表現しました。それまでは、人間は理性を持つホモサピエンス、道具を使うホモ・ファーベルとされていましたが、遊びを加えなければどうしても本来の人間らしさが出ないというのが、その主張でした。人間は遊ぶときこそ、子どもであろうが大人であろうが、生き生きとエネルギーを余すことなく使い、仕事や日常の活動から離れて時間を忘れて楽しむことができます。その表情こそ、その人らしさが見える瞬間的な輝きがあるのです。 

 スポーツ(Sport)の語源は「移す、離れる」から、日常や仕事から離れ気晴らしとしての身体運動の遊びであるとしています。このホモ・ルーデンスの思想に賛同したのでしょう。1950年代からヨーロッパを中心に、一部の人だけではなく誰しもスポーツを楽しもうという「みんなのスポーツ」が広がっていきました。その代表的な種目がジョギング、ランニングであり、外に出て路上の人となって走る時間こそ、自分を取り戻す遊びの時間であることを多くの市民は知ったのです。

 走る人の表情は、孤独に、暗く苦痛に見えがちですが、むしろ、くつろぎ、楽しみ、そして瞑想すら楽しんでいるのです。わが研究室で、2~3km全力で全力走のスピードの40~60%で走っている時の気分の状況を調べたところ、イライラした気持ちは和らぎ、快適な感情は増し、心の状態は改善されることが認められ、また、疲労物質である乳酸を測定したところ、値は減り、心身ともによくなったことがわかりました。これからも、走ることが十分に楽しい遊びの時間であることがわかります。

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 二つのキーワードが出てきました。「楽しい」と「遊び」です。どちらも、普段から馴染み深い平易な言葉ですが、冒頭、著者はわざわざ広辞苑を引いて、「楽しい」には二つの意味があると指摘しています。一つは「愉快」であり、もう一つは「豊か」です。そして、「愉快」なランニングは、「走ること自体を楽しむこと」であり、「豊か」なランニングは、「走りを楽しむいろいろな方法があること」だというのです。著者が言う「楽しいランニング」とは、果たしてどちらの意味を指しているのでしょうか。それとも、どちらの意味であっても楽しければそれで良いというのでしょうか。


 私たちが、日ごろ何気なくきょうは楽しかったなどと言うときにどちらの意味合いが強いかと振り返ってみると、私などはほとんど「愉快」の意味で使っていることが多いことに気づきます。今回のテキストの中には「楽しいランニング」がどちらの意味であるかを明言した言葉はありませんが、この点を考える上では次のキーワード「遊び」がそのヒントを与えてくれています。


 著者はオランダの文化史家ホイジンガによる「ホモ・ルーデンス」(注1)を引いて、「遊び」こそ人間を人間たらしめている特性なので、人間は遊ぶときこそ、心の底から楽しむことができると述べています。遊びとしてランニングをすることが「楽しいランニング」と密接に関係していると言うのです。さらに、ゆっくりペースで走れば「走ることが十分に楽しい遊びの時間」になるとも述べています。こうした主張には、遊びとは言わば良いものだという前提が伺えるように思われます。


 しかし、「遊び」の語を、私たちは様々な意味で使っています。そして、そこには肯定的な意味も否定的な意味もあるようです。余暇を遊んだ、ゲームをして遊んだなどの例に特段否定的な意味はないと思いますが、あの人は遊び人だ、しょせん遊びだ、遊び半分だ、遊び呆けているなど否定的なニュアンスの用例もありますから、遊びとしてランニングをするという言葉だけでは、ただちに肯定的な意味とは限りません。それでは、ホイジンガは遊びをどのように捉えていたのかを見てみることにします。


 ホイジンガは、遊びの本質が何かを探求した人です。そこでは、子犬がじゃれ合う様子を例にとって、「動物はもう、人間とまったく同じように遊びをしている。」と述べています。遊びが人間の本質だと主張していながら、遊びは人間固有のものではないと言うのです。そして、人間の赤ん坊がきゃっきゃっと笑う様子などを挙げて、「面白さ」の要素が遊びの本質であるとしました。子どもや動物が遊ぶのは、そこに楽しさ(ここでは面白さの意味)があるからだと言っています。しかし、遊びの本質(必要要件)に面白さの要素は含まれていても、豊かさは含まれていないのです。このため、全ての「遊び」が当然に豊かなものであるとは言えません。「遊び自体は善でもなければ悪でもない」のです。


 著者山西に倣って広辞苑を引いてみると、「面白い」には、「愉快である、楽しい」とありますので、面白さとは、楽しさの1番目の意味である「愉快」な楽しさを指していると分かります。そこで、ホイジンガの言葉をこう言い換えることができます、「愉快であることが遊びの本質である」。つまり、遊びは、面白いから(愉快な楽しさであるから)行われます。遊びによって何かを得ることを目的として行われるのではありません(注2)。著者山西が、「前者(愉快な楽しさをもって走ること)は走ること『自体』を楽しむことだ」と述べた意味はここにあると私は思っています。ホイジンガの後継者と言われるフランスの哲学者カイヲワ(注3)は、この点を指して、遊びは遊ぶために遊ばれるといった趣旨のことを述べています。


 さて、遊びの本質は動物にも存在すると言うのでしたら、ホイジンガが人間の特質であるとした遊びとは、どのような遊びでしょうか。ホイジンガは、「遊びを繰り返しているうちに遊びが生活全般の伴奏、補足になったり、ときには生活の一部分として不可欠のものになってしまうことがある。」と述べました。「こうしたとき、遊びは食物摂取、交合、自己保存という純生物学的過程よりも高い領域にある。」との指摘は、遊びが面白さ、愉快さだけでなく豊かさに昇華することを述べたものだと私には思われます。このことをホイジンガは「魂を豊かならしめる」とも表現しています。


 より高い領域、それは、文化史家であるホイジンガの言葉では、「人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生する」、あるいは、「文化は遊びの形式の中に成立する」ということになります。面白さから始まった遊びを繰り返すうちに文化の領域たる遊びにまで高めることができる、そこに人間の特質があるという意味だと私は理解しています。「楽しいランニング」を考える私たちにとっては人間文化にまで一般化する必要はないかもしれませんが、愉快な楽しさから始まった遊びのランニングがいつしか豊かな楽しさをも兼ね備えた「楽しいランニング」になってゆくことができるという考え方は魅力的です。


 ただし、ホイジンガは、愉快な楽しさのランニングを「魂を豊かならしめる」楽しさのランニングにまで昇華させるための具体的な方法については語っていません。唯一、「真に遊ぶためには人はふたたび子どもにかえらねばならない」と語るのみです(注4)。考えてみれば、魂を豊かならしめるための安直なハウツーなどあろうはずもありません。ランニングを遊ぶ(注5)ことの意味を考えると、動物にも共通する愉快なだけの楽しさから心豊かな楽しさを得ようとするならば、子どものように純真な気持ちで心豊かなランニングをしたいと願い、原初的動作であるランニングにはそれに応えるポテンシャルがあると信じて走り続けてゆくということではないかと思うのです。


 著者山西は、「後者(豊かな楽しさをもって走ること)は、走りを楽しむいろいろな方法があることです。」と述べました。ここの「楽しむ」は、もちろん、心豊かに楽しもうとするという意味であるはずです。だからこそ、この後に続く「2.多様に豊かに走る楽しさ」では豊かに楽しむいろいろなアイデアを示して、愉快な楽しさでもあり心豊かな楽しさでもある「楽しいランニング」に至ることのできるように様々なアドバイスを提示したのです。


 さて、次回は、今回のテキストの後に続いて問題提起されている強制的・管理的なランニングと走りたいように走る自由について、「真面目になりすぎたスポーツ」(ホイジンガ)を遊びと真面目の対比に絡めて考えてみたいと思います。

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(注1)「ホモ・ルーデンス」ヨハン・ホイジンガ(原著1938)高橋英夫訳 中公文庫(1973)

(注2)ホイジンガ:「遊びは必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。遊びはそれだけで完結している行為であり、その行為そのもののなかで満足を得ようとして行われる。」

(注3)「遊びと人間」ロジェ・カイヲワ(原著1958)次の2つの邦訳があります。

  清水幾太郎、霧生和夫 訳 岩波書店(1970)

  多田道太郎、塚崎幹夫 訳 講談社学術文庫(1990)

(注4)走る哲学者と言われたジョージ・シーハンは、「Running is play. It is being a child again.」という言葉を残しています。ホイジンガの思いと響き合います。私の座右の銘です。Running & Being (1978)

(注5)「ランニングを遊ぶ」拙著 ランニングの世界23号(2018)


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