電子版 楽しいランニングのススメ(抜粋) 5回連載の第2回




 
2011年、東北大震災の年に刊行された「楽しいランニングのススメ」(山西哲郎 編、創文企画 2011年刊)は、10年以上にわたって読み継がれてきました。

楽走プラスでは、本書をさらに多くの方に読んでいただきたいと願い、執筆者および出版社の許諾をいただいて、山西哲郎氏が執筆された下記の各章を抜粋した電子版として公開いたします。
  1-1 楽しく走るために
  1-2 ソクラテスになって走る
  2-2 人間再生トレーニング
  2-5 アンチ・エイジング・ラン
  あとがき

また、全5章をまとめたダウンロード用ファイルも用意いたしました。

【ダウンロード用ファイル】
ダウンロード用ファイルは、本ブログのサイドバー(スマホなどでは「≡」ボタンから)にある下記アイコンの「楽走の本棚」にあります。

いずれも無償でご利用いただくことができます。

2022年9月1日 楽走プラス・スタッフ一同

______________________


【第2回配信】

1-2 ソクラテスになって走る


山西哲郎

 車内で、動く外を眺めつつ原稿を書くと、動かぬ部屋よりも、文字が進みます。しかし、そうなったのは、20年ほど前から、走っているうちにものごとをしっかりと考えられるようになってからです。 だから、最近では、書く前には必ず走ることにしています。いや走らなければ書けなくなったといってもよいほどです。

 ジョージ・シーハン曰く「自分が文章を書くランナーなのか、走る作家なのか、よくわからなくなることがある」つまり、路上の人となって走っている時間経過のなかで、考えが文字となって現れるということです。僕たちが走るのは、肉体を機械に見たて、精神と分離した自分を、もういちど一体化させたいからです。そのほうが、自分に自信が生じ、言葉が自然に生まれ、考えが深まってくるのです。

 もし、ランニングが機械的に肉体を合理化して行われるのならば、霜山徳爾がいう「人間に関する学問は、細分化、特殊化されるに従って…人間とは何か、人間の生き方それ自身について問われることは少なくなってくる。」とすると、走るとは何か、という素朴な問いかけはほど遠くなってしまいます。

 1950年代までのランニングは競走一辺倒の時代であり、からだとこころが分離しがちだったと考えられます。 しかし、イギリスの社会派作家のアラン・シリトーが『長距離走者の孤独』を出し、医学生のロジャー・バニスターが1マイル(約1600メートル)4分の壁を初めて破り、その苦悩をつづった『First four minutes』(1956)は、人間が走るとは、何かを考えさせるものとしてランナー以外の人たちに衝撃と感動を与えたものでありました。それに応えるかのごとく、記録や順位に挑むアスリートとは別に、人生の黄昏を迎えた中高年を中心とした市民ランナーといわれる人たちが、世界の各地に現れたのです。彼らは人生の道を長い年月という時間的距離間を持って走り続けただけに、それまでのランナーとは異なる新しい内面的なランナーであり、その姿は生きるその者の個性あふれた自己表現であったのです。

 1975年に僕は初めての海外レースとしてボストンマラソンに出場したとき、男女、年齢、髪も膚も表情も服装も、統一するものはない人びとがボストンの郊外ホプキントンの道路にあふれていました。 そのなかで、まず自分とは何なのだと思わざるをえず、やがてスタートして30km のheart-break-hillを喘ぎながら上るころは、一人ひとりの走り方は自分たちのなかから出た自己表現であると知ったのです。 まさに、ソクラテス曰く、「汝、自身を知れ」と。

 そのボストンの書店で『Zen of running』という不思議な本に出会いました。日本語に訳すれば「禅走」ですが、ただ、内容は自然のなかをヒッピースタイルのランナーが走る写真が主で、短い詩的な文で構成されていました。 しばらくして、わが国でも、久保田競氏の『ランニングと脳』(1981年)が出版され、ランニングの現象は脳に関係した世界のことであり、そして、ソクラテスとなって走ることも、実は脳のはたらきの変化であると知ることができたのです。

1.脳の構造とランニングの種類

 1962年に発刊された時実俊彦氏の『脳の話』のなかで、 脳をヒトの進化と発育発達に結びつけ、脳幹、間脳、大脳皮質の三層の働きと統合を説いています。猪飼道夫はそれを教育に関連させ、脳幹を身体の教育、間脳を情動脳とし情動の教育、そして、大脳皮質を理性能とし理知の教育と、それぞれの特性を明確にしながら、これらが相互に関係を持たせていく必要性を述べています。

 この脳の構造の三層でランニングを考えれば、脳幹では動物的走り、間脳では感性的走り、大脳皮質では理性的走りとなり、それぞれのランニングによって働く領域が異なり、また、年代によっても脳幹、間脳、大脳皮質と主たる領域は変わってくるのです。

●動物走
 誕生後、乳児から幼児にかけては、四足歩きから、直立二足歩行、そして走行を身につける動作の発達は、まさに脊髄から脳幹にかけての働きによる進化の現れです。そして、腕、脚、体幹の筋肉や神経を動かしながらヒトとしての走りの動作を完成させて行くのです。しかし、これは子どもに限ったことではなく、大人になっても、脳梗塞や脊髄損傷などの病気や事故によって、動けなくなったときのリハビリも、もういちど、乳児から始めて歩と走を再生していくのです。時間制限のないホノルルマラソンには障害児やリハビリの成人まで出場し、ヒトとしての走りに挑む姿が多く見ることができます。

●感性走
 幼児期から小学生にかけての子どもたちは走ることを遊びのように楽しく心地よい表情でやってしまいます。 だから、走は喜びの表現であり、情動脳を使うことによって走ることが好きになり、楽しく走って感性を創っていくのです。その楽しさは自分との対話、自然との対話、そして、仲間との対話を走りながらの体験のなかから創られていくのです。

 その結果、思考に始まり、俳句、スケッチ、作曲といった作品ができあがります。
   ゆっくり走 枯れ草道に 春弾む

●理性走
 ヒトとして走り、子どものように走っていくうちに、もっとうまく賢く走ってみたくなってくるのは自然の成り行きでしょう。ゆっくり走る、心地よく走る、全身の感覚が働き、 脳がさわやかになると考えがしだいに深まっていく。そして、言葉が生きた文字となって、まるで哲学者になったように思えてくるのです。まるで、脚がペンになり、路上が原稿用紙になったように…。 また、会議や講演の内容、研究結果の考察など走る前に、テーマを持って走る。あるいは、呼吸や心拍数、筋肉、そして脳の構造や機能についての知識を持って走りつつ、体の各部に問いかければまさに科学者になれるのです。

●こころで走る
 精神科医であり、マラソンランナーであるT・コストルバラは『Joy of Running』(1976)に「脳の中枢部がランニングと直接関係がある」とし、ゆっくりとリズムカルに走りつづければ、 脳の下層中枢、そして大脳皮質の左側から右側へとはたらきの中心が移り、直感的、感覚的に意識を持つようになると、ランニングの心理的効果を強調しています。 その脳に見られる現象として、エクスタシー現象やランナーズハイを取り上げ、心理的には40分は走る必要があると、具体的に示し、それをもとにランニングによる精神療法をいちはやく始めたのです。

久保田競氏も「私が走るのは、心の安定であり、たのしみのためのランニング、あたまのためのランニングであり」それを書くために『ランニングと脳』を出版したと、その動機を述べ、コストルバラにも刺激されながら論を進めていったのです。

 このメカニズムは、生理学的には、「走ることが筋だけではなく、脳幹や視床下部、辺縁系などが活性したこと」であり、「セロトニンやドーパミンなどの物質が脳内で走る痛みをやわらげ、快感を生み出す」(征矢英昭、2001)と、近年はこころの効果を説明される研究が多く見られるようになってきました。それを橋本公雄氏が「快適自己ペース」という主観的に快適で走ることを提示しています。このことは、2003年に亡くなった世界的名コーチのアーサー・リディアードが「自分に最も適したスピードで走れるようになれば、どんな激しいランニングでも挑むこと」ができるというトレーニングの原点を説いていました。たしかに、自分にふさわしいと示されたトレーニングメニューでも、やはり、自分のからだを通して脳で的確に判断する感覚と直感が必要です。そうでなければ自分の内部から走る力も楽しさも湧いてこないのです。

2.脳で走る

 ランニングに生理的、心理的な効果があっても、ランナーズハイを与えるエンドルフィンには中毒性があり、頑固で極度に集中する態度が出て毎日走らなければならないという気持ちになってしまうこともありえます。 しかし、これは走りたくないということと同様に、脳の働きの歪みとしてとらえ、つねに自己の内部に問いかけて走れば解決することも考えられます。

 1マイル4分の壁にノイローゼになりながらも挑んだバニスターが、「自分の走りや理由はよくわからないが、どうしても走りたい、自分を表現するにはこれしかないという気持ちがあり、これをランニングが呼び起こしている」といった言葉を聞けば、自分自身の頭でセルフコントロールしながら走り、それをランナー自らの言葉によっても知るということは、 脳で走っているという証明になってくるのです。

 アリストテレスの「人間は、社会的動物」であるという言葉を借りれば、走りながらからだを変えていっただけではなく、走る感覚を通して観察力や思考を深め、多くの自然や人びとに接しながら、脳を発達させ「社会脳」をつくった現れであると思います。 かつて、レオナルド・ダ・ヴィンチは散歩をしながら、歩道をつくり、建物の高さや配置を考え風景をつくったといいます。

 これからのランニングは「汝、自身を知る」という自己観察と、周りの風景や人々と対話をして他者を観察し、社会や環境を見極めるという脳を成長させ、より人間らしく走りを楽しみたいものです。



コメント