連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第3回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

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 楽走プラス 楽走の本棚 電子版「楽しいランニングのススメ」

 

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  第1回

  第2回


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


 こんにちは、北島政明です。前回(第2回)では、「楽しいランニング」とは何なのかを2つのキーワード「楽しい」と「遊び」に基づいて考えました。今回は、強制的・管理的に走らされるランニングと走りたいように走る自由です。


なお、末尾に、

【付録 「真面目になりすぎたスポーツ」と私たち市民のランニングに見る可能性】

を設けました。今回のテキストからはいくらか離れた派生的な内容と思いますので、付録としたものです。



今回のテキスト:

 問題は、わが国の学校において強制的・管理的に走らされ、走ることに遊び感覚を感じることができないことです。 どんなことでも遊び心が生まれなくては楽しくなれないもの。一方、1960年から70年代に起きた病の対策としての運動処方で、週3日、10分から15分、最大心拍数の60~70%で走ることが数字で示されました。これでは、本来の走る楽しさを見失ってしまいがち。しかし、それに対抗するかのように自ら走る楽しさを身につけ、今日のランニングブームが始まりました。また、1979年に運動生理学者の小野三嗣教授は、「われわれは走る機械ではない。赤い血が流れ、こころが通っている人間である。走りたいように走る自由、喜びを奪わないで欲しい」と数字での走らせ方を専門の立場でありながらすでに批判されていました。

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 前回のテキストには「楽しいランニング」とは何かが書かれていました。今回のテキストでは一転して、2つの問題点が指摘されています。

 一つは、学校において強制的・管理的に走らされることです。問題である理由として、「走ることに遊び感覚を感じることができない」ことと、「遊び心が生まれなくては楽しくなれない」ことが挙げられています。

 もう一つは、走る長さや強度などを強制された60〜70年代の運動処方です。問題である理由は、「本来の走る楽しさを見失ってしまいがち」だからです。

 どちらのケースでも、問題である理由が「楽しい」と「遊び」という2つの前回と同じキーワードを使って「楽しいランニング」との関係から説明されています。


 ここで、「遊び」と自由の関係に触れておかなければなりません。ホイジンガと彼の後継者とされるカイヲワによる「遊び」の定義があり、その第一番目の要件は、自由な行動であることです。「命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない」(ホイジンガ)です。遊ぶのはそこに楽しさがあるからで、まさにその点にこそ自由があります。遊ぶのも自由、「もうやーめた」と言って遊ぶのを止めるのも自由、何をどのように遊ぶかも自由です。他人からそれを強制・管理されない、誰かが決めた規則などに縛られないということです。


 「遊び」と自由の関係から問題点を見直すと、学校のケースでは他人である学校が決めた内容に従って走ることが強制されています。運動処方のケースでも、他人が決めた規則に従って走らされ、あるいは走ることが推奨されています。ここでは、自分たち自身が走りたいと思うか否かは考慮されていません。当人の意志と関係なくランニングを強いられることになれば自分たちの心と身体の自由が妨げられます。ここに問題の根っこがあります。これでは、「楽しさ」の2つの意味である「愉快さ」からも「豊かさ」からも程遠く、「楽しいランニング」とは全く相容れません。

 小野教授の言葉を引いて、走る人の人間性の重視、そして、「走りたいように走る自由」である自由意志の尊重が大切だと指摘したのはこのためでしょう。自由な行為である「遊び」であるランニング、「楽しいランニング」をしようとのメッセージです。


 ところで、テキストに出てきたのは学校での問題や何十年も前の運動処方の事例でしたが、現在の私たち自身はどうでしょうか。その走りは「遊び」である「楽しいランニング」でしょうか。

 私たちは一人ひとりいろいろなことを目標にして走っています。走ることを継続することを目標にしている方もありますし、心身の鍛錬、健康増進のほか、自己ベスト記録の更新、月間距離の達成、大会への参加などさまざまです。そして、目標に向かって頑張る、日々努力するといった姿勢が「遊び」と両立することも明らかです。真剣に遊び、遊びに熱中することは実際にありますし、そのことで遊びでなくなるなどということはありません。

 ただ、やっかいなのは、そうした熱中、努力、骨折りを肯定する中に、私たちは往々にして「遊び」とは異なる「真面目」の態度を見出すことです。真剣にランニングに取り組んでいればいるほど「自分は真面目に取り組んでいる」との思いは強いことと思います。「遊びなんかじゃない、真面目にやっているのだ」などの表現が用いられる事実は、「遊び」と「真面目」が相反する観念であることを示しています。

 では、果たして私たちのランニングが真面目なものであってはいけないのでしょうか。この問いは、遊びはなぜ大切なのかとの問いの裏返しでもあります。

 ホイジンガは、「遊び」と「真面目」の関係を下の図のように考えていたようです。

(図は、ホイジンガの記述(注1)に基づく筆者の解釈です。)



 「人間文化は遊びの中から遊びとして発生する」と述べて「遊び」が人間の本質であると考えていたホイジンガは、「真面目とは、単に「遊びではないもの」であって、それ以外のものではない。」と考えていました。そして、「人々はこの「遊びではないもの」を「熱中」「努力」「骨折り」といった領域の中に見つけ出した。」のです。

 図に表したように、遊びと真面目(遊びでないもの)は重複しません。そして、真面目は熱中、努力の範囲内にのみ存在します。これに対して、熱中や努力は遊びの中にも含まれることができます(遊びに熱中するなど。2つの円の重複部分)。このような関係を指してホイジンガは、「遊びは真面目よりも上の序列に位置している。」、「遊びはポジティブであるが、真面目はネガティブである。」と表現しました(注2)。


 図の2つの円が重複しているところを、私たちは漠然と「真面目」だと思い込み、そのように言い表してはいないでしょうか。真面目は、遊びの否定なのですから、自由な行動ではありません。そして、自由な行動だと自分では思っているところが本当に自分の意思なのか、大量に情報が氾濫する現代社会のただ中にいるうちにいつしか他人の考えに影響されてそう思いこんでいるのか定かでなくなることがあります。気が付かないうちに誰かが決めた目標やルールなどに縛られて走っているところはないでしょうか。自分が今目標にしていることが、「愉快」であり「豊か」な「楽しいランニング」をしたいと願う自分の心に沿ったものなのか、どこかで見つめてみることは無駄なことではないと思います。

 そして、このことばかりは自分で考えない限り、誰かに相談してもわかるはずがありません。自由な行動である遊びとしての真剣さ、熱中、努力であるのか、遊びから外れた真面目の領域での真剣さであるのか、外形からでは区別できない私たちの内心の問題なのですから。

 もう一度ホイジンガの原点に戻ります。「人間文化は遊びの中から遊びとして発生するのであり、「遊び」が人間の本質である」のです。このことが、「遊び」から外れてはいけないという彼の主張の根拠です。

 テキストにある「どんなことでも遊び心が生まれなくては楽しくなれない」とは、まさにこのことを的確に言い表していると私は思うのです。


 現実には、「遊び」と「真面目」の境界は明確でありません。熱中して遊ぶ中に真面目の要素が容易に入ってくることもあれば、遊びとは異なる真面目であるはずの職業上の「仕事」と呼んでいる活動の中にも当人の自由意志で遊びの感覚で楽しんで行っている場合があります。遊びと真面目は常に相互に転換しているというのがホイジンガがたどり着いた考えでした。

 『ホモ・ルーデンス』は、「これは遊びなのかそれとも真面目なのかという問題も、永遠の沈黙に入ってゆく」という言葉で締めくくられています。この本の訳者である高橋英夫氏も、「いかにレジャーだ、余暇だ、遊びだといって騒ぎまわろうとも、現在のわれわれには、ホイジンガと『ホモ・ルーデンス』に対する自由なパースペクティブがまだ十分ではないと思われる。」と指摘して、「彼が提示したものの意味を理解し、またその精神的射程をはかる仕事は、今後のことに属する。」と書き記しました。和訳の出版は1973年、高橋氏が言った「今後」からすでに半世紀が経過しています。私たち市民のランニングは、「遊び」をどのように咀嚼し、どのようなランニングの世界を創ろうとしているのでしょうか。



注1 『ホモ・ルーデンス』中公文庫 p.106-109

注2 「Running is play」と言い切り、走る哲学者と呼ばれたジョージ・シーハンは、「Play is offence, work is defence」と述べています。ホイジンガと通じ合います。Running & Being 1978

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【付録 「真面目になりすぎたスポーツ」と私たち市民のランニングに見る可能性】


[今回のテキストからは派生的な内容と思いますので、付録といたします。]


 1938年に『ホモ・ルーデンス』を世に出したホイジンガは、当時のスポーツの状況について批判的でした。19世紀後半に「現代スポーツ」(注3)が登場してルールの整備や組織化が進むに連れて、当人の自由な行動であるべき「遊び」からは外れ、競技規則がしだいに厳重となり、組織化と訓練が強化されてゆくに連れて、「競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっている」と述べています。彼の言葉はさらに続き、「ただ闘技的本能だけの、孤立した表われ」になってしまったと批判し、「オリンピック大会などが、スポーツを文化を創造する活動へと高めることができないでいる」。ホイジンガは辛辣だったのです。彼は、このような姿を見て、「スポーツは真面目になりすぎた」と書いています(注4)。

 こうした見解を評価する上では、『ホモ・ルーデンス』が半世紀以上前に書かれたものであることを考慮すべきです。当時のスポーツのことをホイジンガは「技芸、力、忍耐の競争」と表現しています。私たちが現在意識するスポーツのイメージと相違するところは大きかったのです。ランニングについて言えば、『ホモ・ルーデンス』が出た1938年は、いわゆる市民ランニングが勃興する1960年代初期よりも20年ほど前のことです。普通の市民が走り始めるより前のランニングは、少数の競技指向のランナーによるトラック競走の世界でした(注5)。市民ランニングはそれからまだ半世紀ほどしか経過していない若いスポーツです。

 しかも、現在に至る半世紀に起きた変化はまさに劇的でした。多くの市民マラソン大会が生まれ数千人数万人が参加するほど裾野が広がり、インターネットとSNSの出現と普及によって、私たちは大会組織者と参加者(大会イベントというサービスの提供者と消費者)という縦の関係だけに縛られるのではなく、参加者どうしの横の関係とコミュニケーションを持つのが一般的になりました。そして、そうした横の関係に基づいて市民ランナー自身が主体的にランニングの楽しみ方を創り出しつつあると思います。

 こうした変化は、ホイジンガが「スポーツは遊びの領域から去っていく」と嘆いた状態から、再び、ランニングを私たち一人ひとりの自由な活動に取り戻し、「遊び」であるランニング、「楽しいランニング」を蘇らせつつあると言えるように思うのです。まだ歴史が浅く発展途上の若いスポーツである市民ランニングが、これからますます「愉快」で「豊か」という両方の意味の「楽しい」を備えた「楽しいランニング」となるよう、私は願って止みません。


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注3 「現代スポーツ」とはなにかについては、下記サイトによくまとめられています。

  スポーツの概念と歴史について http://tennis-shidosha.com/category36/entry43.html

注4 『ホモ・ルーデンス』中公文庫 p.396-400

注5 さらに言えば、当時のランニングは圧倒的に男性の世界でした。キャサリン・シュワイツァーが初めてボストンマラソンを(男に化けて)走ったのは1967年のことです。現在では、女性の市民ランナーがこれだけたくさん生まれて、ランニングの楽しみ方を一層豊かにしている事実があります。


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