連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第4回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

 無償の電子版(山西氏執筆による章限定)をご利用ください。

 楽走プラス 楽走の本棚 電子版「楽しいランニングのススメ」

 

 過去分はこちら:

 第1章 楽しく走るために

  第1回 冒頭句 鳥は空を飛び、魚は川や海を泳ぐ

  第2回 第1節 走る楽しさとは その1 楽しいランニングとは何か

  第3回 第1節 走る楽しさとは その2 走りたいように走る自由


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


 こんにちは、北島政明です。第1節の最終回となる今回は、感性をもって走ることです。これもまた、言葉を変えた「楽しいランニング」のススメです。


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今回のテキスト:

 走ることはまず、感覚を使って走り、美しく感性的走りを求めること。ギリシャ語に語源を持ち感覚器を通じて認識する学問を感性学(美学にも近い)といいますが、現代になって、ドイツのマイネルは運動やスポーツもこの感性学を用いて研究や指導に生かしていました。それは、単に動きを部分的に観察し、数字や計算だけで運動を分析するのではなく、感覚と実践によって動き全体を感性的に見抜くことであるとし、動きに美しさを感じることの大切さを説きました。それは、走る感覚として走ることに心地よさや、美しさを新たに感じることにつながるのです。

 外を走る。前の広がりを視覚は自然や人工物を形や色で風景を造っていく。耳にあたる風のハーモニー、葉や鳥の奏でる音色、肌を包む風、足の筋肉や腱に弾む土や芝生、舗装と、一歩一歩で、走る感覚は楽しさや美しさを多種多様に変えていきます。


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 独特の表現がいろいろと出てきました。それらの中から私は次の2つの言葉;

  ①「感覚を使って走る」と、

  ②「感性的走り」

に着目したいと思います。


 感覚と感性。どちらも「感じる」ことに関係しています。今回のテキストで著者が最初に言いたいことは、「感じる」ことを大切にして走ろうということにあるかと思います。走っているとき、私たちは何かを感じているでしょうか、あるいは、感じたいと思っているでしょうか。


 感覚とは視覚や聴覚などの五感であるのに対して、感性とは、私たちの脳がそれぞれの感覚を総合して新たに呼び起こす感情とでも言えるように思います。念のため広辞苑には次のようにありました。

 [感覚](sensation; sense) 光・音や、機械的な刺激などを、それぞれに対応する受容器によって受けたとき、通常、経験する心的現象。視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚など。

 [感性](sensibility) 感覚によってよび起され、それに支配される体験内容。従って、感覚に伴う感情や衝動・欲望をも含む。


 さて、①「感覚を使って走る」ですが、私は、走っているときに五感をしっかりと意識して軽んじないことだと思います。生き物である人は、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感などを通して、自分以外の外界と生理的にも社会的にもつながって生きています。走っているときでも、そのことに変わりはありません。大峰千日回峰行者である塩沼亮潤氏は、過酷な回峰行を走った経験から、「大自然の母なる大地に抱かれているすべてのものは、自分を含め、たった一人だけで存在することは決してできない。自分を取り巻くありとあらゆるものが相互関係によって絆を結び合っている。」と指摘しています。五感をしっかりと意識して、走りながらも目で見て耳で聞き肌で感じよう、著者はそうした呼びかけをしているのだと思います。


 そして、②「感性的走り」です。目に見えたもの、耳に聞こえた音声などの感覚によって呼び起こされる感情等という広辞苑にある感性の定義は、私には何やら受動的あるいは自動的に感じられてどこか違和感がありました。視覚や聴覚などからの刺激があっても、それによって自動的に感性が呼び起こされるわけではないように思うのです。四書五経の一つ『大学』にある孔子の言葉に、「心ここに在らざれば視れども見えず聴けども聞こえず食えどもその味を知らず」とあるそうです。視覚からの情報は敢えて目を閉じでもしない限り入ってくるわけですが、見えたはずのそのものを私たちがそれと意識するとは限らないというのは、日常生活でもよく経験することです。自分から関心を持っていたり注意をしていなければ、せっかく目から得た情報であっても「視れども見えず」となってしまいます。


 ですから、「感性的走り」とは、積極的な意識の働きかけによってなされるものであろうと思います。五感を鋭敏に受け止めて、そこから多様な感情を湧き出させて楽しもうとする積極的な姿勢をもって走ることではないかと理解しています。著者は、こうした意識をもって走ることで、「走る感覚として走ることに心地よさや、美しさを新たに感じることにつながる」と言っています。心地よさや美しさは感性によって得られる感情を表しています。


 テキストの後段は、説明文というよりはずいぶんと詩的な文章でした。こうした感覚、感性を持って走ることの喜びを著者は表現したかったのだと思います。「一歩一歩で、走る感覚は楽しさや美しさを多種多様に変えていきます」というくだりは、まさに感性的走りのススメに他なりません。


 ゆっくり走のLSD(long slow distance)を提唱したジョー・ヘンダーソンは、LSDを最初に提唱した著作(注1)の中で、サイモン&ガーファンクルの有名な歌詞(注2)を引いて感性豊かに走る姿への共感を示しています。山西先生と同年齢のヘンダーソンにとっても、LSDでゆっくりゆったりと走ることは感性的走りと密接に関連していました。


 ところで、走っているときに感覚・感性を大切にする考え方に疑問をお持ちにならなかったでしょうか。真剣に走り込みの練習やタイムトライアル、レースなどで走っているときに周りの景色を楽しもうなどと主張したのでは、排すべき雑念と捉えられるように思われます。走りに集中せよ、周りに気を取られるな、といった主張は理解できるように思います。

 私は、そうした走り方を否定したくはありません。ランニングに求めるものは十人十色です。一人ひとりが求める走る目的によって、走っているときの感覚・感性に対する考えも異なることは不自然ではないと思います。ただ、この本がススメる「楽しいランニング」というランニングに対する姿勢、走りながら五感を鋭敏にして自分の感性がそれらの感覚に響き合う喜びを味わう「楽しいランニング」とは異なると思っています。どちらを選択するかは、市民ランナーの個々人に委ねられています。


 念のため確認しておきたいのは、著者は、感性的走りがランニングの唯一つのあるべき姿だなどと主張してはいないということです。ランニングが特定の形でなければならないといった固定的な考え方は、前回に出てきた管理的走らされ方にもつながる危険性があると私は考えています。

 ランニングはなにより「自由な行為」である「遊び」であってほしい。「真面目」になり過ぎて人間の本質である遊び(ホイジンガ)から外れることはあってほしくないと願っています(第2回〜第3回参照)。


 最後になりますが、今回のテキストには感性学が出てきました。私は、不勉強で感性学がどのような学問であるか承知していませんので、その部分のテキストについては解釈する以前の状態です。ただ、テキストに述べられていることは、走る身体動作を部分的に観察・分析するのではなく、感覚と実践によって動き全体を感性的に見抜くこと、動きに美しさを感じることが大切であるというのですから、今回ここに述べた内容と同様の文脈にあるものと理解しています。


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注1 Long Slow Distance - The Humane Way to Train Joe Henderson (1969) 楽走プラスの楽走の本棚にその全訳「LSD - 人に優しいトレーニング」があります。「1.Why? なぜ LSD なのか?」冒頭。

https://drive.google.com/drive/folders/1_0_6ThmSZ7hwO5nl8rqWgESJyjZNis4r?usp=share_link

ほかに、「ランニングの世界」第25号 特集「LSD再考」巻頭言(拙著)。


注2 サイモン&ガーファンクル The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)の冒頭 "Slow down, you move too fast/You got to make the morning last/Just kicking down the cobblestones/Looking for fun and feeling groovy"


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