連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第6回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

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 過去分はこちら:

 第1部 楽しく走る

  第1章 楽しく走るために

   第1回 第2回 第3回 第4回 第5回


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


 こんにちは、北島政明です。前回で第1部の第1章を終わり、第2章「ソクラテスになって走る」に進みます。


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今回のテキスト:


第1部 楽しく走る

 第2章 ソクラテスになって走る


 車内で、動く外を眺めつつ原稿を書くと、動かぬ部屋よりも、文字が進みます。しかし、そうなったのは、20年ほど前から、走っているうちにものごとをしっかりと考えられるようになってからです。 だから、最近では、書く前には必ず走ることにしています。いや走らなければ書けなくなったといってもよいほどです。

 ジョージ・シーハン曰く「自分が文章を書くランナーなのか、走る作家なのか、よくわからなくなることがある」つまり、路上の人となって走っている時間経過のなかで、考えが文字となって現れるということです。僕たちが走るのは、肉体を機械に見たて、精神と分離した自分を、もういちど一体化させたいからです。そのほうが、自分に自信が生じ、言葉が自然に生まれ、考えが深まってくるのです。

 もし、ランニングが機械的に肉体を合理化して行われるのならば、霜山徳爾がいう「人間に関する学問は、細分化、特殊化されるに従って…人間とは何か、人間の生き方それ自身について問われることは少なくなってくる。」とすると、走るとは何か、という素朴な問いかけはほど遠くなってしまいます。

 1950年代までのランニングは競走一辺倒の時代であり、からだとこころが分離しがちだったと考えられます。 しかし、イギリスの社会派作家のアラン・シリトーが『長距離走者の孤独』を出し、医学生のロジャー・バニスターが1マイル(約1600メートル)4分の壁を初めて破り、その苦悩をつづった『First four minutes』(1956)は、人間が走るとは、何かを考えさせるものとしてランナー以外の人たちに衝撃と感動を与えたものでありました。それに応えるかのごとく、記録や順位に挑むアスリートとは別に、人生の黄昏を迎えた中高年を中心とした市民ランナーといわれる人たちが、世界の各地に現れたのです。彼らは人生の道を長い年月という時間的距離間を持って走り続けただけに、それまでのランナーとは異なる新しい内面的なランナーであり、その姿は生きるその者の個性あふれた自己表現であったのです。

 1975年に僕は初めての海外レースとしてボストンマラソンに出場したとき、男女、年齢、髪も膚も表情も服装も、統一するものはない人びとがボストンの郊外ホプキントンの道路にあふれていました。 そのなかで、まず自分とは何なのだと思わざるをえず、やがてスタートして30km のheart-break-hillを喘ぎながら上るころは、一人ひとりの走り方は自分たちのなかから出た自己表現であると知ったのです。 まさに、ソクラテス曰く、「汝、自身を知れ」と。 

 そのボストンの書店で『Zen of running』という不思議な本に出会いました。日本語に訳すれば「禅走」ですが、ただ、内容は自然のなかをヒッピースタイルのランナーが走る写真が主で、短い詩的な文で構成されていました。 しばらくして、わが国でも、久保田競氏の『ランニングと脳』(1981年)が出版され、ランニングの現象は脳に関係した世界のことであり、そして、ソクラテスとなって走ることも、実は脳のはたらきの変化であると知ることができたのです。


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 「ソクラテスになって走る」。第2章には哲学的なタイトルが付いていますが、ソクラテスについては「汝、自身を知れ」という有名な言葉が示されているだけでそれ以上の記載はありません。この章を初めて読んだときには、私は何やら煙に巻かれたような気さえしたものです。そこで、この章のテーマを示す別の表現はないかと読み進めると、『人間が走るとは、何か』、『自分とは何なのだ』といった言葉が見つかります。走ることを通じて自分とは何かを問いかける趣旨を「汝、自身を知れ」というソクラテスによるとされるこの言葉で著者は表しています。


 テキストの冒頭近くには、「自分が文章を書くランナーなのか、走る作家なのか、よくわからなくなることがある」というシーハンの言葉が掲げられています。原著の前書き冒頭にある言葉です。少し原文を示します。



 Running & Being

 Prologue

There are times when I am not sure whether I am a runner who writes or a writer who runs. Mostly it appears that the two are inseparable. I cannot write without running, and I am not sure I would run if I could not write. They are two different expressions of my person. As difficult to divide as my body and mind.


 このように、シーハンは、冒頭の言葉に続いて、「私は走らなければ書くことができないし、書かなくては走れないのではないかと思うのだ。」と、著者山西と全く同じことを述べているのです。


 加えて、「走ることと書くことは、私という一人の人間の二通りの表現なのであり、それは、人間を肉体と精神に分けることができないことと同様に、やはり分離することなどできないのだ。」とも言っています。シーハンもまた、著者山西による言葉、『僕たちが走るのは、肉体を機械に見たて、精神と分離した自分を、もういちど一体化させたいからです。』と同様に、肉体と精神の一体性に言及していたのでした。著者山西は、自分と同様の考えを持っていたシーハンの言葉に触れて、我が意を得たりと感じたのではないでしょうか。


 走るという身体動作と文章を書くことに代表される精神活動が互いに影響しあって、そこに自分が在る。走る=肉体、書く=精神と二つに分離して捉えるのではなく、肉体と精神の両方が合わさって自分という一つの存在、自分のランニングが成り立っている。走るという行為を通じてそのような自分に気づく、そうした自分を意識しつつ走ることがより豊かな「楽しいランニング」につながる、著者のいう『肉体と精神を一体化させる』とはこうしたことであるように私には思われます。


 著者は、臨床心理学者である霜山徳爾の言葉を引いて、走ることを機械的に捉えるとすれば、それは、人間という存在を、これは肉体、これは精神と細分化することであり、「走るとは何か、という素朴な問いかけはほど遠くなってしまいます。」と指摘しています。


 第2章全体を見渡すと、こうした考えを説明するために、多くの人物による言葉や著作が挙げられています。リストアップすると次のとおりです。元の書籍名や出版社情報などは判る範囲で補完して示します。


*ジョージ・シーハン(George Sheehan) Running & Being (1978) アマゾンkindle用電子書籍で入手可

 霜山徳爾 出典不詳

*アラン・シリトー(Alan Silitoe) 短編小説「長距離走者の孤独」(1959) 新潮文庫 丸山才一/河野一郎訳 (1973)

*ロジャー・バニスター(Roger Bannister) First four minutes (1955) アマゾンkindle用電子書籍で入手可

 ソクラテス 出典不詳(アポロン神殿の入口にソクラテスが奉納した格言とされるが真偽不詳)

 Zen of running Fred Rohe (1975) 原著が古書として入手可能の模様

*久保田競 ランニングと脳 走る大脳生理学者 朝倉書店 (1981)

*時実利彦 脳の話 岩波新書 (1962)

 猪飼道夫 出典不詳

*T コストルバラ(Thaddeus Kostrubala) Joy of Running (1976)  「コストルバラ博士の走る健康法」として邦訳もある模様

 征矢英昭 出典不詳

 橋本公雄 快適自己ペース 健康科学誌の論文 (1991)が初報と見られる

*アーサー・リディアード(Arthur Lydiard) Running to the top (1997)

 アリストテレス 出典不詳

 レオナルド・ダ・ビンチ 出典不詳


 これら全てを読み解いたならば「ソクラテスになって走る」の意味をより明確に理解することができるかもしれませんが、私の力の及ぶところではありません。そこで、私に可能な範囲(上リストの「*」印を付したもの)を中心に、今後、短くまとめてみたいと思います。それらを読んでゆく中から、本章で著者が言わんとしたところをもう少し深く知ることができると期待します。




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