連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第5回

「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

 無償の電子版(山西氏執筆による章限定)をご利用ください。

 楽走プラス 楽走の本棚 電子版「楽しいランニングのススメ」

 

 過去分はこちら:

 第1章 楽しく走るために

  第1回 冒頭句 鳥は空を飛び、魚は川や海を泳ぐ

  第2回 第1節 走る楽しさとは その1 楽しいランニングとは何か

  第3回 第1節 走る楽しさとは その2 走りたいように走る自由

  第4回 第1節 走る楽しさとは その3 感性をもって走る


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


 こんにちは、北島政明です。前回で第1章の第1節を終わり、今回は、第2節と第3節です。第2節は多様な走りの具体例を列挙する内容で、第3節はその結語に相当する内容ですので、まとめて扱うことにします。今回で第1章が終わります。

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今回のテキスト:


2.多様に豊かに走る楽しさ


「ゆっくり走ると見えないものが見えてきますね」と、ランニング教室でゆっくり走った人の言葉です。それまでは精一杯に速いスピードで走っていたので、周りの景色もよく見ることもできなかったのだろうし、速い感覚で見えなかった違った自分に気づいたのです。

 今日、これほどたくさんの人たちが走り始め、いつまでも走り続けているのは走るスピードを落とし、スピード感覚が豊かになり、走りを楽しませてくれるからです。ゆっくり走れば、走る時間も距離も延び、それだけ自分も周りも変わり、痛みや苦しさもあろうが、楽しみも大きい。近年、参加者が増え、大会数の増加するウルトラマラソンはその現れの一つです。

 以前は、学校の体育やマラソン大会で生徒たちが走る以外は、専門的に長距離を競争する青少年だけといってもよかったのです。しかし、老若男女を問わず走る今日、その走り方はさまざま。そして、一人のランナーが走る方法も幾種類もあり、それだけ楽しみ方も大きく広くなってきます。

 毎日、同じ時刻に、同じコースを、同じスピードで走っていては走る感覚は衰え、乏しいものになってしまいます。

多種多様なランニングをつくるには、ランニング財と言うべき材料があるのです。


●スピード

 **ここには項目名だけにとどめ、各項目の内容は後に青色文字で示します。

 **他の項目についても同じです。


●地形


●時刻や季節


●人


●路面とシューズ


●プラスワン


3.作る楽しさ・する楽しさ


 このように多種多様な走りを組み合わせれば、単調になりがちな走る世界が豊かになってきます。まるで、多種のランニング財を組み合わせて「走る家」を作るような楽しさ。その原点は、走るそのことを楽しく感じられる"からだ"と”こころ”をもつことです。

 けれども、走ることには苦痛が伴う。セラーティが「走る苦痛を愛せよ」といわれても、苦痛から逃げ出したくなり、やめてしまいたくなるもの。しかし、その苦痛や疲労にもかかわらず走り続けられるのは、新しい走る力を生み出すものが走りの中に潜んでいるからであり、そして、走りは自由で喜びを感じる遊びの要素があるからです。とにかく、走る一歩、一歩に生きた楽しさがあるのです。


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 「楽しさ」が持つ二つの意味、「愉快」と「豊か」(第1回)のうち、豊かなランニングについて、第2回で、私はこう記しました;

「動物にも共通する愉快なだけの楽しさから心豊かな楽しさを得ようとするならば、子どものように純真な気持ちで心豊かなランニングをしたいと願い、原初的動作であるランニングにはそれに応えるポテンシャルがあると信じて走り続けてゆくということではないかと思うのです。

 著者山西は、「後者(豊かな楽しさをもって走ること)は、走りを楽しむいろいろな方法があることです。」と述べました。ここの「楽しむ」は、もちろん、心豊かに楽しもうとするという意味であるはずです。だからこそ、この後に続く「2.多様に豊かに走る楽しさ」では豊かに楽しむいろいろなアイデアを示して、愉快な楽しさでもあり心豊かな楽しさでもある「楽しいランニング」に至ることのできるように様々なアドバイスを提示したのです。」


 今回の「2.多様に豊かに走る楽しさ」に挙げられている多種多様なランニングは、トレーニングメニューではありませんし、挙げられていないランニングを排除する趣旨でもありません。これは例示であって、著者によるアドバイスです。著者は「多種多様なランニングをつくる」ことを読者に求めているのです。「つくる」は創り出すことだと思います。


 1985年の朝日新聞コラム天声人語に、『楽しみながら歩けば、風の色がみえてくる。』(辰濃和男)という言葉があります。テキスト冒頭の、「ゆっくり走ると見えないものが見えてくる」という言葉は、こうした考えにつながるものですし、速度を落として走ることが楽しいランニングに繋がりやすいと著者は言っています。では、スピード走は楽しいランニングになりえないと著者が考えていたかと言えば、そうではありません。スピードの高低も含めて、ランニングの多様性を認め、走る一人ひとりがそこに自主性を発揮することを著者は期待しています。走る人の自由・自主が明確でありさえすれば、そこに良いランニングと悪いランニングの区別などありません。もし特定の走り方のみを良しとするならば、それは著者が排除した管理的、強制的な走らせ方につながってしまうものです。


著者が挙げた具体例をみていきます。


●スピード

 前に述べたように、スピードを変えるだけで身体感覚は変化し、快感も苦しさも異なり、走ろうとする距離も増減する。たとえば、レースの距離が延びれば、それを走りきることができるようにスピードをコントロールしなくては満足に走れません。LSDはスピードを落とし距離の軸をより長く、インターバル走は距離を分割してのスピード軸を増していく。北欧に始まったファルトレークは英語のspeed-playの字のごとく、いろいろなスピードを楽しむ方法で、起伏に富んだ自然地形で行われています。


「より速く」は今日の市民ランニングでも大きなモチベーションの位置を占めているようですが、著者がスピードの項目で掲げているのは、「いろいろなスピードを楽しむ」ことです。楽しむことに主眼があり、スピードの高低は楽しむための方法の一つにすぎません。この関係を逆転して捉えないようにしたいと思います。

 風を切って走る爽快感。私はゆっくりペースで走ることが多いのですが、気が向けばピューッと走ってみます。速く走る距離は短くてもスピードの心地よさを味わうことができます。


●地形

 長距離走は水平線を見ながら平地を旅人のように走ることであり、あまり激しい起伏であっては長く走り続けるには適していません。ロサンゼルスからニューヨークまでの約5000kmの道を走り続けるアメリカ大陸横断は、走り続ける楽しさの極限です。一方、垂直方向の山に向かっての走りは苦しさも伴うが、それだけ達成感も大きく、富士登山マラソンも急激な登りに脚の痛みと酸欠に耐えながらも走る魅力があるのです。

 また、箱根駅伝も箱根の上り下りの地形の変化に富んだコースがあるから見る人にも人気があるのです。海辺や砂丘、原野を走り森や林を抜け、川をわたり、次々に変わる地形を走るクロスカントリーにも楽しさがあります。


 地形とありますが、テキストの内容には距離の要素も含まれています。アメリカ大陸横断に富士登山マラソン、箱根駅伝と勇ましい事例ばかりが出てきますが、もっとずっと短くやさしい距離・地形の中にも多様な走り方はあります。著者も常々語っています。時間がなければ5分でもよい、外に出て走り出してみると一日の気分が変わりますよ、と。

 走り慣れていない人にとっては、100mであっても走って移動することにためらいがあるものです。その10倍もの1kmを走ることができたら、素晴らしいことではないかと思います。1kmの素晴らしさ、5000kmの素晴らしさ、垂直3kmの素晴らしさ。それぞれ素晴らしさの中身は異なることでしょうが、どちらが上でどちらが下ということはないのだと思います。多種多様な地形と距離に応じて、そして走る人に応じて、多種多様な「楽しいランニング」があります。

 私の知人ご夫妻は、地域の年配の方々を誘って朝の川原ランニングを長く続けておられます。歩くほどの速さ、数キロほどの距離。朝日を浴びて広い川面に沿って進んでいけば心が解放されて、参加するみなさんの笑顔が輝きます。


●時刻や季節

 自然を新鮮に楽しんで走るのは朝であり、春である。眠いからだの目覚めと自然の夜明けのハーモニーがよいのです。しかし時には、満天の星と月で月光のランナーとなって走れば、暗さによって視覚、聴覚、触覚などの感覚の受け方が変わり新しさを感じます。夏の炎天下と冬の雪の中では走りも、服装も対照的に変える楽しさもあるのです。


 走るには早朝が良いと言われることが多いですが、朝が苦手な私は、まだ勤めていたころ帰宅ランをしていました。ヘッドランプで照らし出されるのは足元のほんの狭い範囲。暗い中を黙々と走っていると、ふと甘い香りに気が付くことがありました。香りのする方にヘッドランプを向けてみると、それは金木犀であったり、みかんの白い花であったり、懐かしい香りがすると思ったのはいちじくの樹でした。冬の夜道を走ってゆくと、多摩川に近づくある住宅街に入ると気温がすっと下がるのを感じたものです。夜道のランニングの楽しさは、暗さだけではないと気づきました。


●人

「どうしようもない私は歩いている」(山頭火)

 どうしようもない自分だと思っていても、走っているうちにもう一人の自分と語る喜びが湧いてきます。仲間と一緒に走る対話ラン。クラブは走友の群れ。大会はそれが急増し、戦いは自分であっても、ともにゴールへと競う人びとは友情にあふれた仲間になっていくのです。


 誰と一緒に走るかということの他に、走っていて誰かに出会うことも「人」の楽しさかと思います。一緒に走る人の多くは友人などの見知った人が多くても、走って出会うのはまず見知らぬ人です。立ち寄った先で一言二言を交わした人、山道などですれ違いざまに、あるいは、追い越しざまに(追い越されざまに)、会釈をしたりちらと笑みを交わす。お互い荒い息の下、「こんにちは」や「がんばってください」なんて長い言葉を満足に言う余裕もなく、「ちゎ」、「ファイッ(ト)」、それで通じる。そのほうが通じるのです。一期一会が嬉しいランニング。


●路面とシューズ

 砂に始まり、土、苔、草、芝生、木、チップ、砂利、舗装…と足の裏から感じる大地の違い。素足で走れればさらに快適。シューズもいくつか持っていれば、路面に応じて、シューズを代えて走る楽しさが生まれてきます。


 私が履いているランニングシューズは、もう靴底がすり減ってすべすべです。新品のクッション性に較べたらきっと低下していて、元陸上部の息子からは買い直すように言われます。でもね、この靴好きなんですよ。くたびれてしまってすり減ったり破れかけているところも、履き手相応ではないですか。そういえば、お気に入りのシャツもリュックで擦り切れかけていました。破れるまではお互いお付き合いしましょうか、シャツも私も。走り遊ぶのにたいした道具は要らない、そんなふうに私は思っています。


[Running & Being, George Sheehan 1978 表紙より]


●プラスワン

 マラニックとはマラソンとピクニックを合わせた方法で、ゆっくり長時間にわたって歩きも入れながら走りを楽しむことです。ナップサックに着替えや軽食を入れればまさに旅を感じるランニングになっていく。芭蕉の感覚で走りながら俳句を詠む、ウォークマンにベートーベンの田園を入れてのミュージックラン、作家となって走りながらストーリーを作っていくのも走りながらもう一つのことを楽しむことができるのです。


 マラニック。マラソンとピクニックを合わせた造語。数キロでもマラニックになりますし、数十キロでもマラニックになります。ピクニックの要素を取り入れたランニングと思ってもよいのですが、ときどき走るピクニックと思えばさらに身近になるでしょうか。子どもたちをピクニックに連れ出すと、言われなくても駆け出していって立派なマラニックになっています。大人だって、おんなじで良いのだろうと思うのです。

 「吟走プラス」は、走り歩いて心にとまったことをつたない俳句に詠んでいますが、何も走っている最中に句をひねっているのではありません。走った余韻をあとに詠んだものです。走っているときと同時進行でなくても、プラスワンとしてランニングを豊かにしてくれるようです。

 ミュージックプレイヤー、屋外を走っているときには、これは個人的にはお勧めしたくありません。せっかくの屋外です、聴覚を外界から遮断しては、もったいない。

 こうした具合で、例示された多様なランニングの中には、自分に合いそうなところ、合わなそうなところがあったかと思います。ご自分の好きな「楽しいランニング」を見つけて、創っていっていただきたい。自由・自主であってこその「楽しいランニング」ですから。



3.作る楽しさ・する楽しさ


「原点は、走るそのことを楽しく感じられる"からだ"と”こころ”をもつことです。」と著者は言います。走った結果として得られる健康や記録などよりも、「走るそのこと」に楽しさを見出したい。他人から管理・強制されることなく、自分の意志で自由にランニングを遊ぶ。"からだ"だけでなく、"こころ"がランニングに求められています。

「走りは自由で喜びを感じる遊びの要素がある」。これが著者山西が第一章「楽しく走るために」で伝えたかった結論なのです。



次回は、第2章 ソクラテスになって走る、に入ります。


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