1.私はおいぼれたか
60代の半ばを過ぎて、このところ足の故障が相次いでいる。数ヶ月前に右足首が痛くなったのだが、半月ほど前に今度は右のくるぶしが腫れて疲労骨折と診断された。その痛みが治まってきた矢先、こんどは左親指の根元が腫れて今はよろよろと歩いている。どこかにぶつけたり捻ったわけでもなく、無理な走り方をしたつもりもない。スポーツ整形外科の医者はクールだった。原因を相談した私に一言、若い人はこうなりませんと。
生物として加齢による身体の劣化は避けられないことであり、今回の故障に限らず明らかに変化を自覚する段階となってきている。それは、結局のところ、「老い耄れる(おいぼれる)」ということだろう。「耄」は、ぼろぼろになる、壊れるの意だ。「まだ」若い「まだ」走れるといった思いは、いつしか、「もう」若くない、「もう」走れないに至る。
それがいつしか訪れる必然の変化であるとは言っても、もはや速く長くは走れなくなったから、やむなく仕方なく、短い時間と距離のゆっくり走に路線変更するというのでは、いかにも残念なことだ。私は、自分に起こりつつある変化を「耄」であるとして受け入れるしかないのだろうか。
2.若いときの変化、老いての変化
成長期の子どもだったころは、一年間で背がこれだけ伸びた、体が大きくなり力が強くなったと自分の変化を喜んでいた。それは、何よりそれまでの自分に備わっていなかった未知の自分を見出す喜びだった。
老いによる身体変化は、よく若年期の変化をポジティブと捉えるのと対比して、それまでできていたことができなくなったという意味でネガティブに捉えられることが多い。では、今、私に起きている変化は、果たしてネガティブなことなのだろうか。できていたのにできなくなったことがあるのは事実だが、これまでできなかったのにできるようになったこともあるのではないか。
速く飛ばして走ることに快感を覚えていたのが、今ではペースを落としたほうがむしろ愉しく快適だと私の身体が主張する。他人を追い越す追い抜く達成感がなんだか虚しくなり、私を追い越してゆく若者の後ろ姿から目を転じて、道端の風景、足元の草花を愛でつつ走ることを私の心が喜んでいる。心地よくゆっくり走る、先行者を追わずに足元に目を向ける、こんなことは昔の私にはなかなか"できなかった"ことだ。
ポジティブ感情を最大化させる至適運動強度として定義される快適自己ペースは老若それぞれだ。ゆったり走の愉しさを若い息子たちに話してもなかなか通じない。無理もない、彼らは若いエネルギーに溢れ、そのエネルギーに誘われるままに突っ走る楽しみの意識が強いのだ。かつての私がそうであったように。
どの変化がポジティブであり、どの変化がネガティブか。主観的な判断基準などに依らずとも、客観的に見てもそれまでできなかったことができるようになった変化が私に起きていることは明らかだ。老いての変化を身体的変化と心情的な変化に分けて、身体機能は低下しても心情的な豊かさが増すと説明されることもあるが、身体と心を分離して考えるのは私という一つの存在を二分しているかのようで違和感が残る。身体と心が一体となった存在として私がある。心身一如と言ってもよいだろうか。一如である心身の変化として捉えるならば、若いときの変化がポジティブであり、老いての変化はネガティブだとする考えは、あまりに一面的なものだ。
加齢とともに「耄」してゆく我が身体と心ではあるが、そもそも一点の傷もない完全無欠の心身を私が持っていたことなどあったのか。幼少期の未発達でか弱かった身体、青年期のガラス細工のように脆かった心は何だったか。運動不足に陥っていたあの壮年期も完全無欠からは程遠かった。歳を経ての変化だけをネガティブ視しなくてもよいのではないか。
変化の内容こそ異なっていても、生物として当然の経時的変化が若いときから老いたときも連続して生じ続け、常に更新されているのであって、その意味では、若いときの変化と老いての変化をことさらに区別する必要すらない。過去と現在が連綿と連なった一連のものとして捉えることは不合理ではないと思っている。
3.老いる自分を好きになる
このように、壊れ衰えて「老い耄れる」と捉えがちな加齢の移ろいの中に、心惹かれる変化を見出すことは、少し視点を変えるだけで容易になし得ることなのだ。老いてもなお歳を取るごとに新たな変化に出会えるとすれば、それは嬉しいことではないだろうか。少年期の私が去年より脚が速くなったとわくわくしていたときと同じように、今起きている変化もまた、未知の自分を見出す喜びに他ならない。それは、現在の変化を慈しみ、変化してゆく自分を好きになるということでもある。
少年時代の私は自分のことが好きだった。無邪気に好きだと思って疑わなかった。その後、自我の芽生えとともに様々な矛盾にも気づき、理屈で考えるようになるにつれて自分を素直に好きだと肯定することに困難を覚えるようになった。人が人を好きになることを"惚れる"と表現するとき、その根っこの意味では"惚ける"(ほうける)にもつながっているこの言葉は、整然と説明するにそぐわない心の動きをうまく表してくれる。
走る・歩くという人間本来の最もシンプルな運動にこれからもずっと親しんでゆこうとするとき、変化し続ける自分自身に"惚れる"と表現することは、いささか面映ゆくはあっても、さほど的外れとも思われない。これからは、あまりものごとを難しく考えて走るのではなく、走り回る小さな子どもたちを見習って、老いる我が身に惚れつつ、無邪気に惚けてもよいのではないか。
今の足の痛みが治まったら、身体と心が喜ぶようにゆったりと歩き走り出してみよう。そのとき、また一つ新しくなった私の心身は、どんな姿を見せてくれることだろう。
「老い惚れる(おいぼれる)」マイランニング。
逃水を追ひて愉(たの)しく老いにけり
大村森美さん 2022/07/03 朝日俳壇 朝日新聞デジタル
コメント
「生きている証拠」をまだしっかり意識できている私です。
自然体で走り歩き、愉しさを味わいます。ありがとうございました。
死ぬまでに答えが出せる問題と出せない問題、どちらが多いのだろう。
いろいろな色眼鏡を架け替えながら、経験や視野を広げて、追いかけるしかないのでしょうね。数学者の遠山啓さんが人生をやり散らかして生きるのも面白いと書いていたような(森毅さんも言いそうですね)。いろんな色眼鏡が持てると、楽しいでしょうね。
みなさん、一緒に愉しく老いて行きましょう!
そして100年後、あっちで一緒に走りましょう!
いのこ
コメントありがとうございます。「やり散らかす」というの、面白いですね。
そうだ!この年になったら色んなパターンで、やり散らかして楽しくやってもいいかも。
とても気が楽になりました。
嬉しくにもなりました。
ときに、「あっち」だけでなくて、「こっち」でも一緒に走っていいですよ!