連載 私はこう読む 「楽しいランニングのススメ」 第8回


「楽しいランニングのススメ」 山西哲郎ほか著 創文企画 2011年

 無償の電子版(山西氏執筆による章限定)をご利用ください。

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 過去分はこちら:

 第1部 楽しく走る

  第1章 楽しく走るために

   第1回 第2回 第3回 第4回 第5回

  第2章 ソクラテスになって走る

   第6回 第7回


[この連載は、個人の解釈です。著者山西先生の確認を経た解説記事ではありません。]


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ジョージ・シーハンの思想


 今回は、第2章「ソクラテスになって走る」(第6回、第7回)のテキストに引用された人物や書籍の中から、ジョージ・シーハンの思想について、彼の著作の一節をご紹介しながらまとめてみたいと思います。


 シーハンについては、第2章の冒頭近く(第6回)に次のように書かれていました。


 ジョージ・シーハン曰く「自分が文章を書くランナーなのか、走る作家なのか、よくわからなくなることがある」つまり、路上の人となって走っている時間経過のなかで、考えが文字となって現れるということです。僕たちが走るのは、肉体を機械に見たて、精神と分離した自分を、もういちど一体化させたいからです。そのほうが、自分に自信が生じ、言葉が自然に生まれ、考えが深まってくるのです。


George A. Sheehan
Going the Distance (1996) 裏表紙から


シーハン(左)とその親友ヘンダーソン 1989年
Did I Win?より

 ジョージ・シーハン(George A. Sheehan、 1918-1993)は、米国のランナーであり、心臓専門医であり、長くRunner's World誌の人気コラムニストとして「走る哲学者」と呼ばれました。写真を見るとなかなかにハンサムな方だったようです。ランナーとしては、21歳のときに当時1マイルの世界記録が4'06"だったところ4'19"で走っています。その後、医者として長くランニングから遠ざかっていましたが、自分の人生に飽き足らないと40代半ばでランニングを再開しました。51歳のときには1マイル4'47"で走りました。これは当時50代が初めて5分を切った記録です。

 シーハンがその名を残したのは、しかし、ランナーとしての実績よりも彼の書いたコラムや著作を通してでした。シーハンの文章は、医師としての専門的意見もさることながら、彼の生き様を反映して示唆に富む内容で、上の「自分が文章を書くランナーなのか、走る作家なのか」という文章が含まれた「Running & Being: The Total Experience」を60歳のとき(1978)に出版すると、New York Timesのベストセラーリストに14週選ばれる人気を博しました。当時はベトナム戦争から米国撤退の5年後。ランニングに精神的な救いが求められていた時代だったかもしれません。彼は、そのタイトルにあるようにランニングこそ人生を通して自分を表現するに値すると考え、その理想に向けて真摯に生きました。


 67歳にして前立腺がんが見つかり(現在の筆者(北島)と同年齢です)、75歳で亡くなるまで人生は一人の人間としての実験である(an experiment-of-one)と述べて亡くなる直前までランニングと人生についての自分の考えを書き続けました。彼が自らDeath Bookと呼んで書き溜めていたというその本は、彼の親友であったヘンダーソン(Joe Henderson;LSDの考案者)によって死後にまとめられ、「Going the Distance」として1996年に出版されました。これは複合的な意味のあるタイトルで、長い距離を走るランナーの意味、彼の一生を距離走に見立てた意味、一生をやり遂げたとの意味(go the distanceは慣用句)などと考えられます。副題は、one man's journey to the end of his lifeです。ヘンダーソンはまた、シーハンの生涯にまつわる逸話を集めた本を編んで1995年に出版しています。その本のタイトルは「Did I Win?」というもので、これは死期を悟ったシーハンがan experiment-of-oneとして向き合った人生において「私は自分自身に打ち克つことができたのだろうか?」と問うた言葉でした。


 このように、シーハンにとって日々走ることはその精神性の拠り所でした。40代半ばでランニングに回帰したときの思いを彼はこのように書いています。


Then I discovered running and began the long road back. Running made me free. It rid me of concern for the opinion of others. Dispensed me from rules and regulations imposed from outside. Running let me start from scratch. [Running & Being]

(要旨 私はランニングを見出したことで人生をやり直すことにした。ランニングは人の意見や規則などから私を解放して自由を与えてくれた。走ることで全く新しい人生を始めることができる。)


 こうした思いは親友ヘンダーソンとも深く共有するものだったようで、シーハンは下のようにヘンダーソンの言葉を借りて述べています。


One who has found sport stretching his capacity is Joe Henderson, the running editor of Runner’s World. Henderson feels he can’t answer the why-I-run question any better than the others. But he tries. “I write, ”he says,“ because the thoughts inside have to be put in more visible form. I run because it’s inside pushing to get out.” [The Essential Sheehan]

(要旨 ヘンダーソンは、スポーツがその人を大きくすることを見出した。ヘンダーソンは、なぜ走るのかといった根源的な問いに対して直接答えることは難しいと思いながらも、「私は、書く。書く行為は、自分の内なる思いをより明確な形に表現することだからだ。ランニングがそうさせてくれる。)


 このように、シーハンもまた、書くという行為によってランニングを通した自分の人生のすべて(Running & Beingの副題the total experience)の表現者(creator)たろうとしました。シーハンにとっては、受け身の人生ほど退屈で軽蔑すべきことはなかったようです。creatorの反対語はconsumerであると指摘して、こう言い切りました。


the worst of all possible beings, a consumer. [The Essential Sheehan]

(要旨 あらゆる存在の中で表現、創造することなく消費するだけの者、消費者、が最低なのだ。)


山西氏がテキスト中に述べた「肉体と精神の一体化」を、シーハンな次のように述べています。まさに山西氏と同じ思いを抱いていたのだと思います。「play」は彼の最も重要な観念です。


pure unity of heart and soul and brain united with a body that is almost always in action. And that action is play. [Running & Being]

(要旨 心と精神と脳とが身体とが純粋に一体となるとき、常に行動に結びつく。そうした行動こそがplayなのだ。)


Life is motion, and I must not forget it. [Going the Distance]

(要旨 生きているというとは行動することだ。私はそれを決して忘れないようにしたい。)


Being good can result from nonaction. Passivity is a posture that prevents infraction of any regulation. Happiness, on the other hand, requires action. [同上]

(要旨 行動しなくても「いい人」であることはできるだろう。そうした受け身の態度とは、様々な規則・規制におとなしく従うことだ。しかし、幸福は、行動しなければ得ることなどできない。)


 「play」は彼の最も重要な観念の一つです。連載第3回もご覧ください。


Running is play. It is being a child again. I would go out on the roads and get lost in a child’s world. I ran short and fast, I ran long and slow. I was having fun because my body was having fun. I was enjoying running because my body was enjoying running. And while this was happening, my body became better and better at running. Without consulting a book or an expert, I became fit. Even better, I became an athlete. [The Essential Sheehan]

(要旨 走ることは遊ぶこと(play)なのだ。それはもう一度子どもに戻るということだ。私は走り出て子どものころの世界に迷い込みたい。速く走るもよし、ゆっくり走るもよし。長い距離も短い距離も自由自在だ。身体が嬉しいと言っているから私も嬉しい。こうして走っているうちに、私の身体は走ることがずっと上手になった。本を読まなくても、専門家に教わらなくても、私は健康になった。そして、もっと素晴らしいことに、私はアスリートになったのだ。)


 これは、まさに「楽しいランニング」の姿ではないでしょうか。


 このようにアスリートとしての自分を喜んだシーハンは、また、仲間たちとの大会(meet)を愛した人でもありました。


I now have comrades. I am a member of a gang. [Did I Win?]

(要旨 こうして私には仲間ができたのだ。私は今、こいつらの仲間になったのだ。)


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Running & Being (1978) アマゾンkindle用電子書籍で入手可

(和訳がある模様。「シーハン博士のランニング人間学」新島義昭 訳 (1981)

筆者は読んでいない。)



Did I Win? (1995)


Going the Distance (1996)



The Essential Sheehan (2013) 生前のシーハンの著作集

アマゾンkindle用電子書籍で入手可


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